[コラム]眠れぬ夜は、ビヨのこと ―『TIME REPEAT』開幕へー

2026年10月19日

数年ぶりに、コラムを書こうと思い立った。
振り返ってみると、前回コラムを載せたのが、遡ること9年前。2017年6月のこと。
タイトルは、「工藤遥・エースの矜持」。
奇しくも、モーニング娘。で活躍したどぅーについて語っていた。

コラムの掲載が長期に渡って途絶えてしまっていたお詫びは改めてお話しさせて頂くとして、
今日は、BEYOOOOONDSについて、お話ししたい。

今は、BEYOOOOONDS主演、『TIME REPEAT』の、改めての初日前。
メンバーも座組みもお客様も、様々な思いが巡っているであろうこの時だからこそ、彼女たちと過ごしたこの稽古期間、間近で見守ってきたものとして、「表現者」BEYOOOOONDSのことを、お話ししたい。そして、ほんのささやかでも、観客の皆さんとビヨを愛しむ思いを共にし、真剣勝負で舞台に立つ彼女たちに、祈りにも似た激励を送りたいと思った。

BEYOOOOONDSとは、約3年前の『ビヨスパイ』で出会った。
卒業したタカセ、ゆは、そして現メンバーであるまえここ、みいみ、ももひめとは、既に以前の公演で一緒に創らせてもらっていた。3年前、稽古の最中に、彼女たちが稽古に臨むその姿に胸打たれ、Xのポストで思いを綴ったことを思い出す。

彼女たちは、常に純粋に貪欲に、自分の最高点を越えようと走り続ける。
そのたゆまぬ努力と探究心は、彼女たちを応援する多くの人が抱く印象だろう。
まさにその姿勢と、いついかなる時も全力で心を開いて表現する姿に、敬意と感動を覚えた。

今作は、そんなビヨと再び作品創りができることとなり、自分でも並々ならぬ思いで稽古に臨んだ。

ここで少しだけ、専門的な視点からのお話をしておこう。
自分は、演出家として、舞台を中心に、ライブやイベント、伝統芸能、様々なジャンルの表現者と創作させて頂くなかで、常に分野ごとに違う表現者の「身体性」に注目してきた。

「アイドルの身体」というものがある。
もちろん暴力的な一般化はできないが、多くの場合共通しているのは、いかなる場面、いかなるトラブルにも対処できるよう、上半身の腹直筋、背筋を中心とした筋肉と、喉の筋肉をコントロールし、「統制している身体」である。また特に近年、アイドルの多様化・国際化が進むなかで、ジャパニーズ・アイドルの特徴として、喉に一定の力を入れて声色を調整する傾向は、より強くなっていると感じる。人が、幼い子や愛らしい動物たちを見て、自然と発する「優しい声」。喉の筋肉を制御して、意識的・無意識的にその音色を出し、聞き手に優しい音色を届ける、ひとつの専門技術であると言っていい。
こうした、喉、そして上半身の筋肉で表現を制御する技術を用いるのは、アイドルに限ったことではない。宝塚出身の俳優さん、歌舞伎俳優さんなど、舞台芸術の中でも、より大きな会場で、一度に多くの観客に向けて表現をする分野の俳優さんにも、その技術の一端が見られる。

盟友である歌舞伎俳優の尾上松緑丈との演技論のなかでも、腹部の筋肉の使い方、そして重心の落とし方など、一ヶ月近い興行の間、特に古典の歴史物など、たとえ相手が変わろうとブレない表現をするために、「統制している身体」で臨むことが多い、と話していたことが記憶に新しい。

さて、話を戻そう。
今回、私が初日の稽古でビヨの皆に出した、舞台『TIME REPEAT』の指針は、これだった。
「アイドルの身体」ではない、「俳優の身体」で演じること――。
俳優表現は、より多彩で繊細な心理描写が求められる。
人が日常生活のなかで、最も豊かで自由な感情表現ができている時は、「身体のリラックス」が前提となっている。つまり、上記のような「統制された身体」ではなく、出来る限り身体の余計な筋肉に緊張を入れず、かつ適切な集中がキープされた、「リラックスと集中が伴った身体」という前提があってこそ、初めて、より繊細で深い感情表現が可能になるのである。

詳細は省くが、稽古の初めは様々な方法で、この「俳優の身体」と「嘘のない対話」をビヨの皆と共有することに時間をかけた。
さて、稽古をこの身体で過ごすことは、稽古場に別の側面も浮かび上がらせる。
それは、「リラックスした身体」が導き出す、それぞれの表現者の「虚飾のない本質」である。

演出家の祖として知られるスタニスラフスキーの時代から、俳優表現の本質は、俳優自身にある。
そこから浮かび上がるその俳優の内奥が、混沌であろうと、狂気であろうと、それは人間の本質であり、この世界の似姿。その人間の温度を出来る限り鮮烈に作品に注ぎ込む。それが、演出家としてのつとめである。そんな精神で演出卓に座っていた自分は、この稽古場で、幾度も驚きと混乱を覚えた。

彼女たちのひたむきさは、陰をひそめるどころか、純度を増していった。
しおりんは、負荷の多い役を負いながら、稽古初めから芯として毅然と立ち続ける。
みよはシーンの細部まで読み込みを重ね、見事で精緻な発見を、穏やかな口調で幾つも与えてくれる。
こばは、難役と向き合いながら、決して笑顔を絶やさず、皆を明るく支えている。
まえここは、素直な悔しさを口にしながら、日々驚くような成長を続けている。
ももひめは、持ち前の責任感と表現の爆発力で、確実に皆と作品を牽引している。
うーたんは、人並みはずれた広い視点で皆を見守りながら、役を見事に昇華していく。
さやは、試行錯誤しながら、自分の表現を追求する事をやめず、新しい魅力を切り拓いていく。
みいみは、深い読解力と緻密な心理描写力を発揮して、どこまでも探究を続けている。
はなは、舞台初めてなので…、と言いながら、持ち前の感覚で日々着実に進化していく。
まのは、どこまでも真摯に練習を積み重ね、てらいのない努力を続ける。
ゆなは、日々多くの事を吸収し、先輩たちに負けない熱量を放ち始める。

疑り深い年配の自分からすれば、ここで諦めや怠惰の片鱗でも見せてくれれば、息のひとつも抜けるのだろうが、彼女たちのひたむきさに、一切の隙が見えないのだ。ならばとこちらも日々思案して稽古を重ねる。するとまた、また別の一面も浮かび上がってくる。

稽古を終えたしおりんは、ゆながサインを書くのを姉のように寄り添って励ましている。
みよやうーたんは、事あるごとに、まのやゆなに懇切丁寧に演技の作法を教えている。
人を指導する立場に立ったことがある人であれば分かると思うが、教える際に、見ろ、盗め、自分で考え覚えろ、と言った方が楽なものだが、まずは出来ることを実感してもらおうと、丁寧に伝えている。
ある場面でのみいみとうーたんのやり取りでは、互いに自分の役の気持ちではこう、という信念は持ちながらも、「どうすればやりやすい?」という視点で討論して、見事に着地点を見つけ出した。
ももひめは新メンバーのはなやまの、ゆなにダンスを教え、その関係を解きほぐしている。
真剣勝負の稽古で、思わず気落ちしてしまうメンバーを、こばはいつも明るく支えて励ます。
まえここも、自分の役を追求しながらも、常にメンバー全体を見守っている。
一見クールに見えるさやが、ダンスの練習をしているはな、まの、ゆなを、運動会の父兄のように、異常な体勢で甲斐甲斐しく撮影している姿を見たときには、参りましたと稽古場で五体投地するような思いに駆られた。
真剣だからこそ、時に悔しさに涙する。そんな時に、必ず誰かがその涙に寄り添う。
そんな場面を、この稽古場で、何度も目にした。

誰もが自分自身の表現の芯を持ちながら、同時に他者の尊厳に敬意を忘れず、高圧的にでも支配的にでもない対話で、意見の相違から、共に新たな最適解を導き出していく、創造の場。
今、各分野の創作現場でも論議になっている、表現者の尊厳を守りながら最善の作品を創り上げていく共助関係。その理想の形が、ここにあった。

みよがある時、ぽつりと漏らした。「ビヨは、本当にいいメンバーなんです」
ここには、本当に「やさしい世界」が存在していた。
そしてこれが、虚飾でもなんでもない、彼女たちの本質なのだ。

彼女たちが大切に抱えているのは、探究心と繊細な感性と、底抜けの、優しさだ。
生馬の目を抜く芸能界。ひときわ激しい最前線で、その繊細な優しさを抱えながら走り続けることは、時に苦しく、重荷となることもあるだろう。もう少し鈍感であれば、無神経でいられるならば楽だったかもしれない。そんな思いも、彼女一人ひとりのなかにはあるかもしれない。
けれど、そんな彼女たちが、時に世界と、自分と闘いながら、とびきりの輝きを放ってくれることは、多くの人にとっての、生きる「希望」なのだ。人の痛みに、何ひとつの躊躇いもなく寄り添いの手を差し伸べる。そんな純朴で優しい魂の持ち主たちが、ステージを、武道館を沸かせる。こんなに素敵な「希望」があるだろうか。

間も無く、「TIME REPEAT」の幕は上がる。
彼女たちの、万感の思いを込めて。
それはきっと、彼女たちを応援するすべての人、そしてまだ彼女たちを知らなかった人たちにも、彼女たちが全力で届けるひたむきな思いの、贈り物になるだろう。
最後まで、そんな彼女たちのささやかな一助となれるよう、力を尽くしたいと思う。

そしてこの作品が終わったとしても、繊細な優しさを抱きながら全力の闘いを続ける彼女たちに思いを馳せ、救われる日が、勇気をもらって立ち上がる日が、きっとあるだろう。
そんな場に立ち会えたことに、今改めて、深い喜びと感謝を感じる。

これからまた、どんな悲しい夜がやって来ても、どうか心に「やさしい世界」を。
眠れぬ夜は、ビヨのこと。