[コラム]2016年 新たな年の始まりに寄せて

2016年1月3日

2016年という新しい年が明けた。
年を経るごとに、年と年の節目を越えるという出来事は、自分にとっての特別な意味を失っていっていることを実感する。
感受性が損なわれているわけではない。
ただ年を重ねるごとに、何でもない日常、記念日としての特別な意味を持たない日常こそが、もっとも劇的だと感じるようになってきたのだ。

昨年は、12年間の高校での教師生活を辞する、という、自分にとっては節目となる1年だった。
スーツを着る生活を離れ、日々創作に明け暮れる日々。
そこには、人生においての勝利や敗北、栄光や挫折といった色調はない。
自分の「選択」の末に選んだ人生の歩みがあるだけである。
誤解を招かないように言葉を尽くさなければならないのは、冷めているわけではない、ということである。
若かりし日の怖いもの知らずの興奮はない。
ただ、今この腹の内に息づくのは、ある種の覚悟によって生まれた、冷徹な決意のような滾り(たぎり)である。
力任せの一発ではなく、戦略づくの一撃。
まぐれ当たりの偶然の産物ではなく、己の熱量とプロの技術の結束により生まれる必然の産物を作っていかなければならない、という使命感である。

まだぬるい。まだなまぬるいと、恐れをなす自分の心を叱咤して、走り続けないといけない、と切に感じている。
2015年という節目の年に痛感したことは、「自分は恥ずかしいほどに不勉強で何も知らない」ということである。
そして気付いたことは、「創作への覚悟を持った人の仕事は美しい」ということである。
究極の作品とはきっと、損得勘定によって生まれるものではない。
手間も労力も度外視して、「その先にある何か」に向かって疾駆し、全力で手を伸ばす、
その共同作業を、何も言わずにしてしまう、無邪気さの果てにあるのだと思う。
そしてそんな作品を創れる可能性は、まだ、まだ、この先にある。
それこそ無邪気に、遠い日の約束のように確かに、感じているのである。

2016年。
今年もひとつひとつ、与えてもらった創作の機会と向かい合い、対話し、歩んでいかなければならない。

さすがにこの年で自分のことは少なからず理解している。
私は空を飛べる性分ではない。
一歩一歩地を歩き、その大地の温度を肌で確かめながら、丹念に歩みを進めるしかない。
器用なフリなどしない。どだい無理なのだ。
そしていつか、歩み続けた大地の果てに、誰も見たことのない景色を見たい。
そんな青臭いロマンティストのようなことを言ってしまうのは、やはり私が、年越しのハレの空気に、当てられているからなのかもしれない。
そもそもこんな年の初めに、こんな自分のことばかり書き散らしてしまう自分は、リアリストのフリをした青臭いロマンティストなのだろうと改めて内省自戒するのである。

あけましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願い致します。

西森英行